軽さの獲得について -1-
名刺を同時に何枚も出すような人が、少し苦手だった。仕事のやりとりのなかでちょっと圧を感じて、自分から距離を取るようなことがあった。ひとつの場にいくつもの顔を持ち込むような、落ち着かなさ。かすかな自己主張や、どこか調子に乗ってるなーという解釈をこちらが勝手に受け取っていたのかもしれない。一方で20年以上在籍している編集制作会社では、誰の名刺にも部署も肩書も書かれていない。その余白がよかった。実際に編集を軸にしながら、いろいろなジャンルに越境して働くこともあり、そこに哲学とある種の誇りを感じていた。
そんな自分が、2枚の名刺を持つようになった。
(全3話、第1回)
Text&Photo_Yusuke Osawa.
きっかけは、2023年3月。京都の実家にいたとき、家族ぐるみで親しくしている村上さんからメッセージが届いた。
「髪を切ってもらっている美容師のまりこさんの旦那さんのしんちゃんがデザイナーで、会えば共通の話題ばかりで、つい2〜3時間は喋ってしまう。それを見ていたまりこさんから、『そんなに盛り上がるならポッドキャストとかやってみたら?』と言われたんですよね。本当に始めようと思っていて、でも2人だけだとどうしても話がとっちらかってしまうから、ファシリテーターをお願いできたらと思って」
相談内容はそんな感じだった。ポッドキャストで人前に出るのは気後れするけれど、裏方的な立ち位置なら編集やインタビューの延長線上にあるように思えて、違和感はなかった。早速、次の週末にみんなで食事に行くことになった。
それ以来、ポッドキャストのプレ収録のような感覚で、オンラインで週に1回、1時間半を目安に話すようになった。聞いていた通り2人の会話は途切れることなく、あっという間に2時間を超えるのが当たり前に。話題は具体と抽象を行き来して、多岐にわたった。「ネガティブ・ケイパビリティ(確定しない状態にとどまる力)」「ヴァージル・アブローが提唱したツーリストとピュリストの視点の両方を満足させること」「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』的な、誰も取り残さない姿勢」「“時間余り”の社会になるという未来予測」「グッドアンセスター(未来の子孫に誇れる先祖であること)」「WE ARE FAMILY的な集団性」……。その雑多さが魅力で、もともとメモを取るのが癖のようなところがあり、こうした会話も放っておくにはもったいなかった。記録するという行為には、なにかしらの磁力がある。このトークも録音して書き起こそうとしたけれど、AIを使う以前の自分にとって、2時間超の音源を整えるのはかなりの労力で、週末の時間では限界があった。それで試してみたのが、話しながらリアルタイムでキーワードだけを打ち出していくという方法だった。語尾のニュアンスや言い回しのディテールの面白さを捨てて、言葉の芯だけを拾っていく。「神は細部に宿る」と信じてきた人間にとっては、本当なら避けたいやり方。でもそうすることで、3人の会話の時間内で完結し、総体が残るようになった。言葉が対話のなかで転がるリズムと、画面に文字が並んでいくスピードが不思議と合っていた。試しに半年分の記録を文庫本形式にまとめてみた。スラッシュで繋がった言葉の断片を羅列した変な一冊ができた。記録癖がかたちと重さを持って、手元におさまった。
この3人のやり取りに「DIALOGUE」という名前をつけたのは村上さんだった。名前によって小さな場所が確保される。DIALOGUEを何ヶ月か続けた頃、末期がんの父の体調がすぐれず、また京都の実家に戻ることになった。そんなある日の話題が、「持続可能なプロダクト」についてだった。サステナビリティという言葉がひとり歩きしてしまう場面も多いなか、もっと手触りのある実践ができたらという話から、「じゃあ、それを実現できる会社を自分たちで作ったら?」という話に広がった。もちろん、その場で何かが決まったわけじゃないけれど、だだ「できたらいいね」で終わらせずに、少しだけ具体的な方向に踏み込んでいった。
編集の会社では、これまで本当にさまざまなプロジェクトを経験させてもらった。「このチームがあれば、どんな仕事でもきっとかたちにできる」と本気で信じられる現場がたくさんあった。もし唯一制約があるとしたら、それはすべての始まりが外からの課題であるということ。自分個人のやりたいことを、そのまま投げ込むわけにはいかない。そこには当然ながら、組織の方針や集団としての総意、収益性といった、越えなければならないハードルがある。それは、どんな組織にいても変わらない現実だと思う。でもDIALOGUEという場は、どこの誰にも属していない“何者でもない”ポジションだった。そこで話したプロダクトのアイデアは、これまで「やりたくても無理だろう」と無意識に諦めていた小さな思いに触れるものだった。
いま住んでいる家は、1980年代に建てられた古い一軒家をリノベーションしたものだ。リノベーションするタイミングで、家具やインテリアの歴史を辿るようになった。本を読み、プロダクトを探し、資料を追いかけていくうちに、自分のなかで再発見したのが、生まれ育った関西の80〜90年代にあった断片的な光景だった。たとえば、六甲の街並みに点在していた安藤忠雄のコンクリート建築。彫刻的に浮かび上がりながら、風景の一部として記憶に焼きついていた。あるいは、デパートの文具売り場で、真っ黒な塊のような存在感を放っていた黒川雅之のgomシリーズ。他のどの商品とも違う、異物としての美しさがそこにあった。そして、決定的だったのは、中学生の勉強合宿で訪れたマイカル三田ポロロッカ。設計はエミリオ・アンバース。ガラス張りの巨大なピラミッドのなかに、木々が生い茂り、小川が流れていた。人工的な自然。擬似的な楽園。アニメで観たスペースコロニーのような、ユートピア感が広がっていた。
その感覚を追いかけるように、椅子を中心に家具はポストモダン期のものを選ぶようになった。メンフィスミラノ、エットーレ・ソットサス、ミケーレ・デ・ルッキ、アルド・ロッシ、マイケル・グレイヴス、倉俣史朗、高松次郎、若林奮、梅田正徳、三原昌平、北原進、関根伸夫、Studio80、SUPER POTATO、ZEUS、マリオ・ボッタ……。名前は次々に重なっていき、関連する雑誌や書籍の収集も増え、気づけば300冊を超えていた。集める行為そのものは楽しい。けれど、その熱量はあくまでも“内側”に向かって積もっていった。誰にも見せることもなく、自宅の空間を埋めていく。表現ではなく、蓄積としての偏愛。もちろん、クライアントワークのなかでその美意識が遠隔的に活かされることはある。けれど、その接続はかなり淡く、そこにある衝動のすべてを使い切るには至らなかった。どこにも行き場のない澱のようなものが重く溜まり、だんだんと自分が誰も訪れない古い図書館になったような気がした。
そんな思いがDIALOGUEという場所で、少しずつ動き出していった。ファシリテーターという立場を取りながら話すことで、自分でも気づかないうちに偏愛が混ざっていた。完全なONでも、完全なOFFでもない時間のなかで、内側に溜め込んでいたものが、ようやく出口を見つけはじめた。デザインへの偏愛、建築の記憶、モノへの愛着――そうした断片が、対話を通してプロダクトの構想へ溶け出していく。堆積していたものが、流れを生みはじめた。
(第2回へ続く)
Author: 大澤佑介_編集制作。1979年、大阪府出身。クリエイティブプロダクションRCKT/Rocket Company*に在籍しながら、プロダクトサステナビリティを標榜するanew inc.に参画。IG: crawford_high, anew_inc, rckt_rocketcompany