ブエノスアイレスでの出産

東京で生まれ育ち、そのまま学生時代を過ごした後10年ほど仕事に奮闘し、結婚もした。それから5年ほど経った30代前半、夫婦で南米アルゼンチンへと移住。私はその地で初めての出産を経験した。(シリーズ第1回目)

Text_Rina Ishizuka. Photo_Numa, Ana Armendariz.

 なぜアルゼンチンへ行ったのか?誰しも口を揃えて尋ねてくる。東京から離れた土地で生活してみたかったことが第一の理由。そして、違う環境に身をおくことで、頭を一度リセットし、違う視点や考え方を取り入れたかったのだ。フォトジャーナリストである夫は移住前、仕事で2度ほどアルゼンチンを訪れ、外国人でも住みやすそうな街であることを実感していた。そして、後に私たちの移住生活のキーパーソンとなる友人たちとの出会い、住む場所の確保、と次々と移住に向けての物事が進展していった。こうして東京から一番遠い街に住むことになった私たち。

ここで書ききれない移住を決めた理由については、また改めて書こうと思う。

 南米のパリとも称される首都ブエノスアイレスは、南半球の強い太陽の下で巨大化した街路樹がにょきにょきと立ち並び、まるで「植物園のなかにある街」という印象を受けた。昔、中南米やヨーロッパをバックパックで旅したことのある私にとって、両者の混ぜ合わさった空気が心地よく、肌にすっと馴染むような感覚だった。外国人が外国人扱いされず、誰もが自然と社会の一員として生き生きと日々を謳歌していた。私の友人にも、労働ビザを取得せずにオーガニックワイン販売のビジネスを営むフランス人や、自国の郷土料理レストランを営むタンザニア人、家族で衣料品店を経営する韓国人たちがいた。皆がこの街で自分にできることを生業としていた。

 私はといえば、馬車馬のように働いていた東京での生活からトーンダウンし、スペイン語を改めて学びながら、現地に住む日本人へヨガを教えたりと、穏やかな生活を1年ほど送っていた。味の濃い野菜やフルーツ、イタリアの影響を受けた食文化やアルコール度の高いマルベックワインも好みだった。やがて私は第一子を妊娠した。

 アルゼンチンでは水や電気、ガスが止まることは日常茶飯、政治経済もなかなか安定しない国。妊娠がわかったとき、初産ということもあり、東京へ帰るという選択肢も考えた。しかし、自然と湧き出た答えは、アルゼンチンで産む、ということだった。この国で生まれた子どもは誰でもアルゼンチン人となり、親も永住権同様のIDが取得できる。お腹の中にいる我が子にとって、アルゼンチン国籍が将来どんな役に立つのかわからない。けれど少なくとも、日本以外に住める場所、訪れるべき場所ができるのは悪くない、と思った。さらには1年半生活するうちに、アルゼンチンは医療先進国であることが判っていたし、なにより私自身がここで産みたい、と思った。

 

  最初に取り組んだことは、妊娠した外国人が加入できる健康保険を探すこと。兎にも角にも、保険加入をしないと高額な妊婦検診費を払うことになるので、保険会社と信頼できそうな私立総合病院をリストアップし、直接出向いての相談を開始した。とある保険会社のオフィスにて、自分の父親くらいの男性職員から保険内容の説明を一通り受けた。最後に、優しい笑顔で「おめでとう!」と祝福され、硬い握手を交わした。帰路に着きながら、「ああ、赤ちゃんを授かるって本当に喜ばしいことなんだ!」と、温かい感情が溢れて来たのを思い出す。



 わからない医療用語をいちいち辞書で調べたり、地道に物事を進める必要があったけれど、人生において忘れられない素晴らしい旅のはじまりだった。



Author: 石塚理奈_ライター。1979年、東京都出身。夫、2人の息子とともに東京で暮らす。旅やヨガ、ライフスタイルに関する記事を執筆するほか、PR業にも携わる。ときどきヨガインストラクターとしても活動。

→この記事は今後も続くシリーズです。次回は2023年1月中旬頃にアップします。

※訂正:トップ画面に表記されるタイトルの下の文章内、「2年間」を「2年半」に訂正しました。

分類:ストーリーズ/Stories

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