ブエノスアイレスを目指すまで

Text_Rina Ishizuka. Photo_Ana Armendariz.

(シリーズ第2回) 2011年、私は広告代理店に勤めていて、しかめっ面で夜遅くまでデスクトップに向かい、家に帰っても仕事の電話に追われる毎日を送っていた。誰もが忘れられない3月11日は、出張先の伊豆半島で地震を経験した。復旧した新幹線でどうにか真夜中に東京駅まで戻って来たのだが、寒さとショックで寝付けなかった。こんな未曾有の事態の最中、フォトジャーナリストの夫はアルゼンチンのワインの一大産地であるメンドーサに取材で滞在していた。

:夫は「ecocolo」の取材でアルゼンチンに行ったのだった。写真はその記事、2012年5月号に掲載された。

その後も彼は、雑誌の撮影でブエノスアイレスを訪れている。


「友達曰く、ビザの制度も緩いし、誰でも住んでしまえばアルゼンチン人になれるって。とりあえず行ってしまえば住めそうな街だ」

「街中至るところで、市民が自分の持つ技術や知識をシェアするワークショップが開かれている」


帰国した夫からこんな旅の報告を受けた私は、遠い街並みとそこに住む創造力に溢れた人々を思い浮かべてみる。自分がどっぷり浸かってしまっているライフスタイルとは、随分とかけ離れている気がした。

多額のお金が動く広告制作やイベントのディレクションをし、それなりにお給料ももらっていた。子供はいずれ欲しいが、仕事にあまりにも多くの時間を割いていた日常では、出産をするというイベントが現実的に捉えられなかった。



そんな日々を送っていた真冬のある日、渋谷の私の家に、南米から「アーティスト・イン・レジデンス」という制度で来日したアルゼンチン人カップルのフリアンとメルセデス、休暇をとって旅行で遊びに来たアナの3人がやって来た。夫は現地取材で彼らと知り合い、東京での滞在先として我が家に招待したのだ。

残業もほどほどに切り上げて、私たちの行きつけのお店で夕飯を食べたり、週末に鎌倉へショートトリップへ出かけるなかで、色々な話をした。休みと労働に緩急をつけたライフスタイル、10年ごとにデフォルトを繰り返す政府、そして紙幣に対して絶対的な信用を持っていない国民。だからこそ、1人ひとりが持っている技や知恵を振り絞り、商いをし、力強く生きている感じがした。

:東東京の蕎麦屋で語らうフリアン、私、夫。

そんなアルゼンチン人を「羨ましい」と言ってしまえば、経済危機の現実をまるでわかっていない日本人の浅はかな感覚かもしれない。でも私は、落ち着いて思考を廻らせ、地に足をつけたライフスタイルを送りたい、と常々考えていた。けど、一体どうしたらそこに辿り着けるのか。会社を辞めてどうすればいいのか。フリーランスでどうやって生計を立てたらいいのか。目の前は不確定要素だらけだったのに、なぜだかまだ見ぬ街で生き生きと過ごす自分が想像できた。そう思えたのは、ブエノスアイレスからやって来た3人と東京で出会い語らうなかで、彼らや彼らが住む街(あくまでこの時点ではイメージだが)が自分にとって魅力的に感じられたから。そしてなにより、30数年間の人生で東京しか知らなかった私は、一度生活の場所をガラッと変えてみたかったのだと思う。


それから1年ほど経ち、機は熟したのか、移住が現実的となった。私は退職を上司に告げた。南米行き計画がもう後戻りできないような、自分の言葉が背中を押してくれたような感覚があった。次の仕事は決めていないし、南米でヨガを教えてみようか、くらいのぼんやりとしたビジョンだけを片手に、南米行きの準備を進めていった。


 


Author: 石塚理奈_ライター。1979年、東京都出身。夫、2人の息子とともに東京で暮らす。旅やヨガ、ライフスタイルに関する記事を執筆するほか、PR業にも携わる。ときどきヨガインストラクターとしても活動。

→この記事は今後も続くシリーズです。次回は2023年3月下旬頃にアップします。

分類:ストーリーズ/Stories

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